責任を Responce-ability に読み替えてみる
「責任」という言葉は、英語で“responsibility”です。しかし、「責任」という日本語にすると、法律などの固い枠組みの中にある概念に聞こえてしまう。ですが現場で生じてくる事態は、既に機能している学問の枠組みの外側で発生するので、「責任」という言葉では対応できないことも多いんです。
飯嶋さんも言っていたように、応答の人類学とは、責任という強い言葉ではなく「受け応え」や「やりとり」という意味で「応答」という語を用いる。つまりresponsibility を “Responce-ability”──「現実に応える能力」ーに読み替えること。社会的責任や責務としては一般化できなくとも、個別具体的な現場に向き合い、誰かの問題を一緒に考えたり、当事者が気づかない外部の視点を提示したり、余計なおせっかいと嫌がられたり……そうした行動を起こすことが大切だと思うんです。
なるほど、おもしろい。個人的な体験としても思い起こすことはあるな。
小さな話だと、近所のスーパーに買い出しに行ったときにたまたま目の前にいたおばあちゃんが困っていた、とか、たまたま見つけたウェブ上の記事を読んでいたら誤字脱字を見つけた、とか。そういうときに自然とわきあがってくる「力になれたらいいな〜」という微弱な信号がある。日本語でいう「責任」を感じているかというとぜんぜんそんなことはないのだけれど、ためしに英語の「Responce-ability」と向き合ってみると「応答能力」とでも呼べそうかな、もっと砕いて言えば「できることがありそう感」が生じていると思う。 最近、近所をお散歩するときにゴミ拾いをしているのも、責任よりもライトな Responce-ability の発露と言えるのかもしれない。「住民には、居住エリアをきれいにする責任があります」とは思っていなくて「自分が歩く道なんだからきれいな方がいいじゃん」くらいの軽いノリね。 つまり、研究者である我々がすべきことはシンプルです。いま自分が出会ってしまって、最初は巻き込まれただけのように感じるかもしれないけれど、自分の目の前にある「現場」を捉えて、そこから時代を考えていけばいい。いま目の前にいる相手に、自分がどうすれば寄与できるかを考え続けていればいい。あるいは、社会の急速な流れから一度退却したとしても、応答し続けていければいい。それこそが、「自前の思想」を実践するということなのだと思います。
これは「研究」というよりは「生き方」「生き様」そのものの話に読めたなあ。どこに足を運ぶのか、そこでなにに手を伸ばすのか、なにに巻き込まれるのか、どのように応答するのか。そうした意思決定の連続と言動の積み重ねをあとからふりかえってみたときに、それが「人生」と呼ばれるものになるのではないか。 誰もが何にでも反応できるわけではないだろうから、ついつい反応・応答してしまう対象があるとき、それが才能ってことなのかもしれないねぇ。関わらずにはいられないナニカってのが人生にはあると思う。 ぼくらの「意思」ってのは、世界が常に自分に対して無数の Request を発していて、そのうちのどれに Response するか、ってことなのかもしれないね。